特集 映像に描かれた図書館

映像表現における図書館と図書館員像に関する論考

 伊藤敏朗(東京情報大学)


 映画やテレビなどの映像メディアにおける表現は、作り手や、その背景にある社会・世相の“気持ちの有り様や考え方”を写す鏡=“イメージ”であり、それがまた受け手の観念を触発し、あるいは増幅して、行動を方向づけていく。


 映像表現にこめられた多様なメッセージを分析し、洞察を加えることは、国と国や、人と人のコミュニケーションの問題を考える上で非常に重要な意義を持つと思われる。(例えば、「外国映画に描かれた日本」「メディアの中の女性像」などの話題は、しばしば新聞などにとりあげられている−注1)

 「図書館を描いた映像」にはどのようなものがあり、そこにはどのような図書館・図書館員像というものが反映されているか−−このテーマについて当分科会では、山本昌実・元世話人の当時から大きな関心を持って研究してきたが、対象が相当の本数にのぼり、なかなかまとめられずにいた(注2)。最近このテーマに関連した論文もみられるようになり(注3)、例会でも、藤林有希子氏が『ベルリン天使の詩』(ヴィム・ベンダース監督1987年)をとり上げたことを機会に、今回、筆者の研究の途中経過を記し、あらためて各位のお教えを乞いたいと願う次第である。

 映画の途中に図書館のシーンが現れて、思わず身を乗り出さない図書館員はいないだろう。大学・学校図書館(室)の登場する場面ならばことさらで、『卒業』 (マイク・ニコルズ監督1967年)、『ある愛の詩』 (アーサー・ヒラー監督1970年)、『キャリー』(ブライアン・デ・パルマ監督1976年)、『クリスティーン』 (ジョン・カーペンター監督1983年)、『ミスター・ソウルマン』 (スティーブ・マイナー監督1986年)、『スチューデント』(クロード・ピノトー監督1988年)、『ワン・モア・タイム』(エミール・アルドリーノ監1989年)、『ヤング・シャーロックピラミッドの謎』(バリー・レビンソン監督1990年)、『サード』 (東陽一監督1978年)、『家族輪舞曲』 (椎名桜子監督1990年)など、青春映画を探せば幾らでもありそうだ。

 『フィールド・オブ・ドリームス』(フィル・アルデン・ロビンソン監督1989年) や、『ウォーゲーム』(ジョン・バダム監督1983年) では、映画の主人公がある疑問を抱くと次のカットで公共図書館の内部のシーンになり、彼等が器用に目録カードやマイクロフィルム・リーダーに取り組む姿がごく自然な行動として挿入され、‘市民生活に密着した図書館’という描き方が印象的だったが、映画でおなじみの図書館としては、やはりニューヨーク公共図書館が思い出される。

 『ティファニーで朝食を』 (ブレイク・エドワーズ監督1961年) では、このシックな図書館を訪れたジョージ・ペパードが、オードリー・ヘップバーンに向かって「この引き出しに本を借り出す為のカードが入ってるんだ。本の題でもいいし著者の名でもいい」と、カードケースを前に説明するシーンなど、そのまま利用者教育に使えそうだし、『ゴーストバスターズ』 (アイバン・ライトマン監督1984年) で、例の哀しげにカードを排列している熟年女性司書の亡霊が出るのもこの図書館。最近では、『オフビート』(マイケル・ディナー監督1986年)の、いささか頭の目出たい主人公が同館の閉架書庫係で、ローラースケートを履いて書架の間を滑り廻り、本を出納するアイデアが笑える。もっともこれは、フランシス・フォード・コッポラ監督が、やはりこの図書館を舞台に“You're a Big Boy Now”(1966年・日本未公開)で描いたシーンの焼き直しで、それもデトロイト公共図書館の実話をもとにしているというから驚く(注4 )。

 アメリカを代表する図書館といえば、何といっても『大統領の陰謀』(アラン・J・パクラ監督1976年)や、『容疑者』(ピーター・イエーツ監督1987年) などに出てくる米国議会図書館。図書館員が主人公の映画なら、『さよならコロンバス』 (ラリー・ピアース監督1969年) で、リチャード・ベンジャミンが、ニューアーク公共図書館の館員を演じて本格デビューを果たし、その後ベンジャミンは監督業に転じて、1984年の彼の映画『月を追いかけて』でも図書館やブックモビルを登場させている。

 本を読むことの喜び、図書館の果たす役割という点では、『アイリスへの手紙』(マーティン・リット監督1990年)で、ロバート・デ・ニーロ扮する非識字者が、文字を覚える為に図書館を利用する姿が感動をよぶし(注5)、『ウィーズ 塀の中のブロードウェイ』(ジョン・ハンコック監督1987年)はニック・ノルティの終身囚が刑務所図書館を利用して本の素晴らしさに目覚め、やがて囚人同士の劇団を結成、仮出所して旅興行に出るという物語。刑務所図書館は『アルカトラズからの脱出』(ドン・シーゲル監督1979年)にも出てきてクリント・イーストウッドがブックトラックを押していた。また、『グッドモーニング・ベトナム』(バリー・レビンソン監督1988年) では、冒頭のラジオのDJで、米軍が戦地にも図書館サービスを展開していることが示唆されているし、『ドライビング・ミス・デイジー』 (ブルース・ベレスフォード監督1989年) のデイジーも、自分は図書館の愛好者だと喋っている。かわったところでは、“The Music Man” (1962年) の図書館内でのミュージカルシーンや、『ビデオドローム』(デビッド・クーネンバーグ監督1983年) のグロテスクなビデオライブラリー“ブラウン管伝導所”、『華氏451』(フランソワ・トリフォー監督1966年)の、焚書を逃れる為に、本の内容を丸暗記した人々のコロニー(口伝図書館)などもあるが、筆者としては、『惑星ソラリス』(アンドレイ・タルコフスキー監督1972年)の、宇宙ステーションの中の図書室で、無重力状態になって、本といっしょに宙に浮かぶ主人公と‘妻’の、透明な美しさが忘れ難い。

 図書館はまた、推理と謎ときの舞台でもある。『インディジョーンズ 最後の聖戦』(スティーブン・スピルバーク監督1989年) では、図書館の床に描かれた文様の解読からその地下通路へと誘い、『ハメット』(ヴィム・ベンダース監督1982年) では、図書館の書庫の床がガラス張りで、謎を追う者・追われる者が空中に浮かんだ特異な位置関係を描いていた。知的推理ものの焦眉といえば『薔薇の名前』 (ジャン・ジャック・アノー監督1986年) だが、司書の本への博愛心理という視点から見ても興味深い(注6)。


 このような映像を見くらべるのは、さまざまな図書館運営の様子がうかがえて興味が尽きないが、その描き方にも幾つかのパターンがあることが分かる。例えば、‘図書館は静寂であるべし’というテーゼへにたいする裏返しとして、観客は、映画の中の登場人物が、館内で大声を出すことを期待しているもので(最近では中山美穂のカゼ薬のCMもこれだ) 、その結果として、図書館員や周囲の利用者に「シー」と咎められるというシチュエーションが古典的に存在するわけである。

 そして、そこで働く図書館員もまた、『ゴーストバスターズ』の亡霊を代表に、ステレオタイプ化された本の番人として笑いの対象になるか、更に厳格なイメージが膨らんで嵩じる恐怖感が、『ソフィーの選択』(アラン・J・パクラ監督1982年) における、あやしげな司書像を生み出したりする。

 日本映画に登場する図書館員像もなかなか辛い描かれ方だ。

 『ガス人間第1号』(本田猪四郎監督1960年)では、生体実験でガス人間(透明人間) になり、日本舞踊の女師匠に恋慕を募らせつつ悪事を働く図書館員が主人公。『赤い殺意』(今村昌平監督1964年) では、封建的な家中心思想の因習のなかで育ち、住み込みの女性を犯して妻にするが籍は入れず、職場で不倫をしている喘息もちの大学図書館員が主役のひとりである。『猫のように』(中原俊監督1988年) では、やはり大学図書館に働くヒロインが性的鬱積を抱えて悶々としており、彼女がカウンターで目録カードを繰っていると、恋仇の妹が現れて、姉の手元からカードの束を奪いとって中空にぶちまける。『ペンギンズ・メモリー 幸福物語』(木村俊士監督1988年)では、従軍体験で傷を負い、挫折感を抱えた若者が旅に出るが、流れついた田舎町で「本に囲まれて暮らしたい」と言って、(いともあっさりと)図書館員になってしまう。

 要するに図書館員というのは、何らかの挫折なり鬱屈なりを抱えており、生気に乏しいが、腹では何を考えているかわからないような人間を描きたい場合の恰好の職業であるらしいのだ。

 (最近では『君は僕を好きになる』(渡邉孝好監督1989年) も、身持ちの固い女性司書が唐突な求愛に昏倒する典型的なシンデレラ物語で、こうした観点からするといろいろ難癖をつけたい所もなくはないが、カードケース越しに演じられる人形劇が秀逸なので、ここでは一応許しておこう)

 こうした図書館員像は勿論虚構であり、例外的なケースを描いているのだから、好きに描かせておけば結構なようでいて、結構でないのである。


 映画というのは、それが虚構であるがゆえに、より‘それらしく’描こうとするために、世間のイメージとかけ離れた突飛な人物像や職業感といったものは描かないものだし、それゆえに受け手の側はやすやすとその設定と物語を受け入れるのであって、映像に表れた“像”とはその意味において、やはり広く社会に平均して敷衍されている、多くの人々の心の“鏡”だと言えるのである。

 つまり世間では、 社会構造の生産的な第一線から退いた場所として、 図書館、或いは企業の資料室や史料室といったものを捉えているらしいと考えて良い。(『木村家の人びと』(滝田洋二郎監督1988年) では会社の「社史編纂室」がそれに当たるし、漫画の世界でも「資料室」とは左遷の記号なのだ)。

 図書館・図書館員の集合をひとつの産業・業界として考えてみた場合、これらはまったく歓迎できない傾向である。いま、あらゆる産業において、その業種にたいする固定概念が如何に次世代の人材確保と業界の将来を左右するかが真剣に悩まれている。土木や建築の業界が‘3Kイメージ’を払拭する為にどれほどのパブリシティーを費やしているかといったことを考えた場合、果たして図書館界としても、このような偏見に満ちた映像メディアの描写を看過していて良いのだろうか。

 わが国の図書館員人口の少なさを考え、今後に取り組むべき課題の大きさを思う時、わが業界にはもっともっとバイタリティーに溢れ、才能のひらめきと豪胆な戦略を持った若い血が‘よだれ’が出るほど欲しいのだ。これが旧来の偏見イメージに攪乱されて、事務局長が「彼は気が弱そうだから図書館向きだろう」という人事を発令したり、若者が「自分は人づきあいが苦手だから本の世界に没頭したい」などという手合いしか志願して来ないような構造になると、図書館界の未来は暗いと言わざるを得まい。

 ではどう解決するか。図書館員が、颯爽と難事件を解決し、悪党をなぎ倒して大金持ちになった上、美女(男)に囲まれる映画を日図協で作れば良いのだが、実際のところは、やはり地道な広報活動を重ねていくしかないのだろう。ただ、これまでの図書館のPRが、利用者を対象としていた(当然だが)のに対し、これからのPRは、図書館界内部の人間の意識の変革とか、有能な人材の獲得といったことをも戦略に入れて、様々な場面へパブリシティーを打つことが、より意識されて良いのではないかと思う次第である。

 映画ではないが、『セサミストリート』(1990年10月12日 NHK教育)では「メリル図書館へ行く」と題し、あのモコモコしたぬいぐるみが図書館に行って、本の借り方を教わったりレコードを鑑賞する場面が描かれていたし、日本では『クイズ百点満点』(1990年8月26日NHK)が良かった。(日図協の働きかけによるものかと思うが?−注7)

 実は以前、筆者の所にある広告代理店から電話があり、某光ファイバーメーカーのCMとして、図書館の収蔵した情報のパワーを示した上で、その情報量を伝える光通信の能力を訴えるようなものを作りたいが、ロケに使える図書館を知らないかという相談で、これは図書館の姿が茶の間に頻繁に流れる良いチャンスと思って協力したが、その後実現しなかったのが残念だ。これらの映像が流れることにどれ程の意味があるのかと言われそうだが、“イメージを育む”というのは、そういう小さな断片の積み重ねであり、軽視してはいけないものである。(余談だが、芳文社「まんがホーム」連載の『のぞみさんちは大さわぎ』の作者は、どこかの学校図書館の司書ではないか?関係者の間では有名な存在なのかもしれないが、こういう人の存在こそわが業界の宝である。ご存知の方はお教え願いたい)。


 以上、図書館員のイメージの問題について述べてきたが、一般の利用者が図書館を利用する際の意識の有り方について問題点を指摘できそうな映像として、2つのテレビ映画を論考したい。


 ひとつは、浅野ゆう子が図書館員を演じた『知りすぎた女』(伊藤秀裕監督1987年3月10日日本テレビ)で、彼女が勤める図書館に文字の切り抜かれた本が返却され、その文字を埋めてみると、少女誘拐の脅迫文になっていた、という「火曜サスペンス劇場」らしい一話。もうひとつは『雨の脅迫者』(今野勉監督1990年11月16日フジテレビ)で、佐々木邦子の『波食』を原作とするこのドラマは、風間杜夫扮する予備校教師が図書館で借りた本の中に、その本の前の利用者だった主婦役の大竹しのぶが頁の間に挟んだまま忘れたラブレターを見つけ、脅迫ともいたずらともつかない電話を繰り返すうちにいつか心がひかれあっていく、という恋愛サスペンスの佳作である。

 どちらも図書館が重要な舞台であることは歓迎なのだが、これらの物語のバックボーンとなっているものに、筆者は、いささかひっかかるものがあるのである。

 多くを述べる紙幅はないが、筆者がここに読み取ることができるのは、ひとつの本を大勢の人間が使うという図書館のシステムに対して、本を介在して他人と触れ合うことへの漠然とした不安感、ないしは、そこから何か出会いがありそうだというような恋心にも似たほのかな期待感、ないし無意識ではあるが、そこ(本)から何かが伝染るのではないかというような、多湿なアジア的風土に根ざした生理的警戒感−それらがない混ぜとなって、本を‘借りる’ことで、‘何かが起こる’のではないか、と身構えるような心理的土壌が、物語の作り手と視聴者に共有されており、それをくすぐるからこそ成立するドラマではないのか、ということである。それがひいては図書館をはじめとする、公教育システムというものにたいする社会的認識の、いまだ成熟の途上にあることを示して、わが国の大衆社会を図らずも活写している、という気さえするのである。

 (そういえば内田善美の漫画『空の色ににている』(1981年集英社) にも、自分の借りようとする本の先周りをしている少女の名をブックカードに発見し、出会いが始まる−というような設定があって、ブラウン方式などは若者達の恋路の邪魔だという事がよくわかる)

 以上の筆者の見解を、直ちには首肯して頂けない向きもあろうが‘映像を読む’という姿勢にはこういう視点も欠かせないように思う。今や「映像民俗学」という領域も成立し、‘心の風景論’が語られる時代である。AVライブラリアンの皆さんと、ご一緒に考えていきたいテーマだと思っている。ここにとりあげたもののほかに、図書館や図書館員の登場する映画・演劇・テレビドラマ・漫画・歌謡曲等をご存知の方は、是非、お教え頂ければ幸いである。

 尚、本稿の執筆に際し、DIALOG#299“Magill's Survey of Cinema”は有力なツールとなったが、会員の永原和雄氏、元会員の横村宏司氏、および亜細亜大学図書館には多大なるご指導ご協力を頂いた。この場を借りて厚く御礼申し上げます。

注1)「アメリカ映画の中の日本」(朝日新聞1990年3月10日夕刊),「TVの女性像変わったか」(同紙1989年8月28日),「女性・人種差別をズームアップカナダで女性の映画・ビデオ祭」(同紙1989年12月3日),「性の商品化に異議の声 CMで大阪の市民団体アンケート」 (読売新聞1989年10月23日) ,ほか
注2)本稿に掲げた42本のほか、以下の6本にも図書館が登場するようだが筆者は未確認である。
 “Good News”(1947), “The Silence of the Sea” (1949), 「蜘蛛の巣」(1955), 「蝉取り紙」(1969),「ロングウェイ・ホーム」(1981),“The Breakfast Club”(1985).
注3)冨江伸治:図書館と映画・テレビ・ビデオテープ イン USA;みんなの図書館,No.160(1990.9)pp.68-75
注4) Paul Dickson : The Library in America, A Celebration in Words and Pictures, Facts on File Publications, 1986, p.180
注5)原田安啓:“It's My Library”, 北から南から;図書館雑誌, Vol.84,No.10(1990.10) p.701
注6)隅山恵子・西田清子[聞き手]:新春インタビュー 加藤周一氏にきく 『薔薇の名前』から「古都保存」まで;図書館雑誌,Vol.85,No.1(1991.1)pp.11-14
注7)[常務理事会報告事項], 協会通信;図書館雑誌, Vol.84,No.6(1991.6) p.397(中段上)


「視聴覚資料研究」(私立大学図書館協会東地区部会研究部視聴覚資料研究分科会)Vol.2 No.3,p.120-123(1991.1)より転載